2010年4月12日月曜日

ふと考察。

 ベートーヴェンの曲っていつもすごく自分の中に共鳴しやすくて、例えばドイツに住んでいた事でより共感しやすいからなのかとか、彼が田園交響曲について「自然を書いたのではなく、自然に対する人間の感動を書いたのだ」ということに何より納得したりとか、いろいろ考えるのだけど、特に彼のソナタを弾いている時に感じる事が多いのは、苦悩と葛藤と怒りのような強い精神。なのにその思いを必ず強い希望へのエネルギーへ変えて昇華させる。
 耳が不自由になり、絶望の縁に追いやられて生きることへの絶望感に沈んでから、音楽に再び希望を見出し最後まで生ききる彼人生そのものである気がするけど、そこにあるものとは。

 音楽家として致命的な耳の障害を与えられ、生の放棄を覚悟するまでに追い込まれたからこそ、生きていること(生かされていること)の奇跡と素晴らしさに気がつき、ただその事への感動を得て、神に対する「絶対的な」感謝がそこにあった。衝撃的な感動だっただろう。

 生きている事は本当に奇跡であり本当に素晴らしいこと。いい事も悪いことも全て、生きているから経験するわけで、その経験全てが生きる魂を豊かにしてくれる神様からのプレゼントでしかない。
 ベートーヴェンはそれを神様に絶対的に感謝していたに違いない。それも彼の性格だからきっと中途半端ではなかっただろう。それだけに彼の魂は、生きながら神様の傍に在ったと思う。
 
 今度のクロイツェル・ソナタでも、彼のあらゆる感情と感動と希望に溢れた楽しみを五感、六感で受け止めて聴衆へのパイプ役になれるように、こんな小さな自分でも少しでも精一杯役目を果たしたいと思うと同時に、彼という存在を楽しみたいと思う。彼が今生きていたら友達になりたいとさえ思うが、しかし彼は友達になってくれるかどうか・・・?笑